被災地から №2「被災地から見えてきたもの」

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なんだか毎日の忙しさの中で、なかなかブログが書けず、申し訳ありません。被災地の報告を続けます。 

私たちは、南三陸町から入りましたが、本当に大変な状況でした。電信柱が根こそぎ倒れている。車はパチンコ屋の屋上に乗っかっている。それ以上に瓦礫の山・瓦礫の山にはただただ、「言葉がない」状況でした。 

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とりわけ瓦礫の中で多くの人が亡くなったこと、まだ見つかっていない方たちの家族の方々の気持ちを考えると涙が出てきました。本当に心の底からご冥福をお祈りいたしました。さらに、瓦礫の街の中を懸命に捜索されいる自衛隊や警察・消防等の方たちの姿もあちこちで頑張っていられました。 途方もない瓦礫の山と行方不明者の捜索、さらには避難者への生活支援と多くの方の懸命の努力の上に成り立った復興であることを目の当たりにしました。

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南三陸町では被災地の山の上のスポーツセンターが、避難場所となっていました。ここは自衛隊やボランティアなどがたくさん居て大変賑やかな感じがしました。もう50日もたっていたので、鯛焼きを配布したり、子どもたちも外で遊んでいたり、日々の生活の中で避難所の「日常」が垣間見れました。
 また、スポーツセンターの入り口に、発見された未確認の遺体のリストが何十枚も張られていて、「そこに年齢・性別着衣・所持品」などが記載され、何人かの方が、家族を探していている姿がありました。。
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体育館に入ると、全国から多くの救援物資が届いていました。体育館いっぱいに所狭しとダンボールが高く積まれていました。スーパーの倉庫のように、米・味噌・醤油・カップラーメン・缶詰などの食料の他、衣類などが積まれていました。 
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その傍らで行列があったのでよく見ると「DNA」と大きく看板が掛かっていました。何だろうとよく見ると、「家族が行方不明の方は鑑定をしてください」。ということでした。 よくよく聞いてみると、損傷がひどく顔や体の一部で判別ができない遺体の確認のためにため、DNAで照合をしていることでした。 

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石巻市は、大きな港町で漁港として栄えている町でした。港には大きな貨物船が停泊し、港の大きな倉庫が辺り一帯が被災していました。住宅地は根こそぎ破壊されて、海岸地帯の状況はとても見るに堪えないものでした。
また、町の一角に溝が掘られて、遺体の仮埋葬をされている場所がありました。何十列にも連なる溝に驚きました。
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さらに、単独で、福島に行き、原発の状況の中で現地の人がどのように考えているのか。その怒りを聞いてきましたのでそれはまた、後日レポートします。さらに深刻で、先の見えない「原発」。エネルギー問題も絡みながら、№3で書きます。
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今回の視察で、多くのことを学びました。ただ、その中で一番は現実を直視すること。 マスメディアには映らない、写さない現実が一方であること。 また、今回行くに当たって、今現地に行くのは「物見遊山・・・」という人もいたが、
現地の人と語った中では、「むしろどんどん来てくれて、どんどんお金を使ってくれることが一番。今、仙台も観光客が来なくなって、産業全体が悲鳴を上げている。震災だけでなく、震災後の大変さもあるんだよ。」ということでしたので、どんどんボランティアでも、観光でも、温泉でも、理由はどうあれ、東北地方の経済復興も含めて、全面支援をしていく必要があると考えています。


私は6月議会が終わったら、もう一度被災地に行き、今度は違った視点から関わりを持ちたいと考えています。 そのときはまた、希望する何人かの人と一緒に行きたいと思います。









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